むし暑い日が続いています。皆さんは、夏は好きですか。嫌いですか。
例えば「夏がやってきた」という文章に、読む人はどのような印象を持つでしょうか。暑さはもちろん、特定の夏の思い出や部活動などとつなげて、悔しさや、嬉しさ、切なさなどを感じる読者もいるかもしれません。
ゲストスピーカーを務めた「追手門アイデンティティ」の授業コメントでも、「同じ文章や小説を読んでも、人によって感想や解釈が異なるのは、それぞれが歩んできた経験の違いが影響しているのでしょうか」という質問を受けました。そこに生じた「解釈の「ズレ」は尊重されるべきものなのか、それとも作品によっては共通して大切にすべき捉え方がある」のか、とも訊いてくれました。これは、小説の読み方に関して、かなり本質的な問いです。
もちろん、読者の解釈の「ズレ」は想定されます。しかしながら、作者が読者を想定する際、ある「共通」の読み方を期待していることも想像されます。
例えば、「美味しい葡萄を食べた」と書いてあっても、それがシャインマスカットなのか、デラウェアか巨峰かは分かりません。しかし、作者はきっと、何か特定の葡萄を頭に描いているはずです。
では、作者が考えているのと異なる葡萄を読者が思い描いて読めば、それは間違った読み方でしょうか。
私は、それが蜜柑などではなく葡萄である限り、やはり「正しい」読み方と言えると考えています。
なぜなら、言葉とは、元来このような「幅」があるものだからです。その「幅」の範疇にあるかぎり、読者は自由に葡萄を思い描いてもいいはずです。そしておそらく、言葉だけで出来た小説などの芸術の魅力は、この読者の想像力の自由度にあると思われます。小説の中に「美人」は登場させることができますが、映画にはそのような抽象的な容姿の人物はいません。
皆さんも、友だちと会話していて、うまく伝わらなくて、もどかしく思ったことがあるかもしれません。この言葉の「幅」を前提に、文脈や空気を読んでより正しく受け取ろうとするのが、ふだんの言語活動の「読み」です。一方、その「幅」を積極的に広げて想像しようというのが、小説などの言語芸術の「読み」と考えられます。
皆さんのこの夏も、ぜひ、「幅」広いものにしてください。