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2021.02.04

当たり前の日常とは何か

 今年は2月3日が立春で、暦の上では例年より一日早く春になりました。その前日である節分も、1897年以来124年ぶりに2月2日となり、話題になりました。
 節分が何日か、などの日本の暦については、国立天文台が決めているとのことです。地球の公転、つまり太陽を1周する日数は365日ちょうどではなく、調整が必要で、それが4年毎の閏年であることはご存知と思いますが、さらに微調整が必要で、世界中で一斉にこの調整が行われることがあります。このような時に当たると、暦が人工のもので、自然そのままでないことに否応なく気づかされます。これに加えて、今年のように各国独自の暦のずれも生じるわけです。
 日本は150年ほど前まで正式に旧暦を用いていましたし、いまだに各地にその名残も見られます。節分と立春も、農家であった我が家では、新年を意味する「年越し」と呼んでいました。
 逆に見れば、我々が当たり前としている現在の多くの国の統一暦の方が驚くべきものと言えます。
 このように、我々が日常と呼んでいるものは、普段は気づかず、何か劇的な変化があった時に初めて気づくものです。我々が歴史という名で学んだものも、実は当たり前の日々の記述などではなく、いわば事件史なのです。
 小説やドラマなども同様です。「水戸黄門」などの時代物のテレビ番組で、事件も起こらず、印籠や桜吹雪が出ない回はありません。「名探偵コナン」のコナン少年は、もうどれだけ謎に満ちた事件の変死体を見たのでしょうか。こんな少年は現実には絶対に存在しません。
 そうであるのに我々は、事件の起こらない「水戸黄門」や「名探偵コナン」は想定もしません。そこには、事件が起こることが前提の、実に「濃い」世界が拡がっています。ここが現実世界と決定的に異なる点です。
 今、大阪は緊急事態宣言下にあります。緊急事態は、常態化すれば緊急事態ではありません。では、我々が戻るべき日常とはどのような日々を言うのでしょうか。皆さん、想像できますか。
 思えば、節分があるからこそ季節は分けられ、その移ろいに気づきます。季節感も人工的なものかもしれません。このようなことを意識して、我々はもっと「濃い」日々を過ごすべきなのではないでしょうか。


毎年恒例「通天閣の豆まき」で豆まきを行う追手門学院大学のチアリーダー部員らと

クレー射撃で東京五輪に内定している中山由起枝さん(前列中央)、

本学卒業生の通天閣観光西上会長 _2020年1月撮影

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