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2021.01.17

先入観と杞憂

 授業が始まりました。キャンパスがにぎわっているのを見ると、大学という場に固有のエネルギーを感じます。
 多くの人間が集まっている物理的な熱の総量に加え、その一人一人が、それぞれ別に求めるものがあって、それが学生同士や教職員との出会いによって、いわば衝突熱や摩擦熱のように、特別の熱を帯びていると考えられるからです。
 この「衝突」や「摩擦」は、他人と考えがぶつかった時に起こります。決して悪い対立ばかりではありません。時に、自分のそれまでの考えを改めるきっかけになる、重要なものです。

 アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」と述べたそうですが、確かに18歳までは、何かを「学ぶ=受け入れること」が主で、「疑う=素直に受け入れないこと」は教えにくく学びにくいのでしょう。
 「偏見」と一緒によく使われる言葉に、「先入観」があります。「偏見」は文字通り偏った見方のことですが、「先入観」とは、偏っているかどうかは不明ながら、とにかく、知らず知らずのうちにそう思ってしまっている考えのことです。どちらもあまりよくない意味ですが、では、これらから自由になり、より柔軟な考え方をするにはどうすればいいのでしょうか。
 おそらくその方法として、最も近道なのが、「疑う=素直に受け入れないこと」なのです。

 「杞憂」という言葉があります。「必要のない心配をすること」「取り越し苦労」の意味ですが、なぜそう謂うのかについては、中国古代の「杞」の国の人が、いつか天が崩れ落ちてくるのではと心配し憂えたという「列子」の故事から、と説明されます。この説明を聞いて、「へえ、そうなんや」と思うだけでは、疑う訓練ができません。
 なぜ「杞」の国の人は天が落ちてくるなど馬鹿なことを考えたのか、とか、なぜわざわざ、古代中国の故事で謂い続けているのか、日本人は故事成語をなぜこれほども多用するのか、などです。そこから、学びや研究が始まります。

 皆さんにはとにかく、「疑う=素直に受け入れない」を大切にしてほしいと思います。もちろん、喧嘩にならないような、「考え」や「学び」に限った疑いです。
 皆さんがこの主旨を誤解することが私の「杞憂」であることを願います。

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